TOPインタビュー

国際紛争、大規模災害、少子高齢化など、厳しい状況の中で新しい道を拓くための人材育成・社会貢献に資する大学への期待は大きい。真摯に改革に取り組む大学トップの声を紹介する。

大和大学 田野瀬 良太郎総長インタビュー[前編]

西大和学園ブランド確立前夜の物語① 開学後の路線変更

西大和学園が創設された1980年代というのは高校生が急増していた時期で、どの都道府県も、いくつ高校をつくっても生徒の増加に追いつかない状況でした。奈良県も例に漏れず、どれだけ新しく高校をつくっても追いつかなくて、奈良県内から大阪府の私立高校へ通う生徒数が5,000人に上っていたほどです。奈良県議会でも、「どこに高校をつくり、どのような教育をするのか」が議論の大半を占めていました。

この頃の私は、すでに「教育を実践してみたい」という思いを抱いていました。そこに、この県の苦労している状況です。「民間といえどもひとつ高校をつくれば、奈良県にとっても大きな助けとなるのでは」そう考えた私は、早速奈良県に相談をしてみます。頂いたお返事は予想通りのもの。「是非つくってほしい。ひとつでもつくってもらえるととてもありがたい」と言っていただきました。こうして西大和学園高等学校は創設されることとなったのです。高校不足の世の中でしたので、生徒募集で苦労することもなく、新設校にもかかわらず、開校初年度から非常にたくさんの生徒が受験してくれました。時代に恵まれていたと思います。


西大和学園高等学校は1986年に開校しますが、当時の私は教育に関してまったくの素人です。それゆえ、各教科の先生には「子どもたちをとにかく良い大学に合格させてくれ」と言い、他方、運動部の顧問の先生には「とにかく甲子園に行ってくれ」「インターハイに行ってくれ」と言っていました。学校としての路線を定めず、全方面に発破をかけていたのです。

加えて、採用した先生方は20代前半の若手がほとんどでしたから、皆やる気に満ち溢れています。そうすると、どうなるかは明白ですよね。各先生がそれぞれの目標に向かい、開学直後から全速力で走り始めるわけです。

同年夏、私は保護者から呼び出されることになります。「この学校はどの先生の話を聞いたらええんや。生徒が困っとるやないか。教科の先生は、授業が終わったら自分の補習に来いと言う。野球部の先生は部活に来いと言うし、サッカー部の先生は補習みたいなものは放っておけと言う。誰の話を聞いたら良いのかまったく分からない。交通整理をしてくれ」そうお𠮟りを受けました。

そうですね。先生方は皆若くて、エネルギーに満ち溢れていましたから。

その保護者からのお言葉を受けて、確かに高校には、進学校やスポーツの強豪校、女子の職業高校など、様々なタイプがあることに気が付き、本校にも一定の路線が必要だと理解した私は、全国の学校に教えを請うて回りました。訪問先は各都道府県のトップ進学校、スポーツの強豪校など実に様々です。けれども、どこの学校の校長、理事長も異口同音に、次のようにおっしゃいました。「今は生徒数が多いが、間もなくして、子どもの数は減少のフェーズに入る。また、今はまだ大学進学率が低めだけれども、この先どんどん進学率は上がっていくだろう。そうしたときに、高校生の一番のニーズは進学となる。これからは進学校の時代だ」と。

進学校へのニーズは、生徒自身に限ったものではありません。保護者にとってのニーズでもあります。親ならば誰しも、我が子に良い大学へ進学してほしいという思いを、少なからず持っているからです。ゆえに、「生きていくなら進学校で」とのことでした。

さらに、とある高校では「うちのような歴史ある学校ではもう路線変更は難しい。でも、西大和学園は開校からまだ半年も経っていないんだから、どうにでもなるじゃないか」と背を押していただきました。 そうしたたくさんの方のご意見を踏まえ、西大和学園は「開校後」に進学校に路線を定めることとなります。


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