
大和大学 田野瀬 良太郎総長インタビュー[前編]
さて、では「なぜ学校作りを始めたのか」ということですけれども、市議会から県議会に進もうとして落選したあとの4年間の浪人時代、経済的に困窮していたことが、実はそのきっかけです。市議会議員時代に得た報酬で細々と生活をしていましたが、その蓄えもたちまちなくなり、一時は日雇い労働者のように、毎日どこかの建設現場に行き、日当を貰って生活していました。妻もミシンを借り、内職をしてくれていましたね。
しかし、次の県議会議員選挙に向けた準備もしなければなりません。その日暮らしをしていては駄目だということもわかっていました。そこで、妻と相談をし、考えついたのが、保育園をつくることだったのです。妻が保育士の資格を有していたことに加え、私が息子たちの通う保育園の保護者会長をしていた時に、園の運営や保育・教育の在り方に疑問を覚え、「自分ならもっと良い園を作るのに」と考えていたのを思い出して生まれたアイディアでした。
しかしながら、園をつくるための資金は国の融資機関で借りられるものの、肝心の土地がありません。困った私は、とある農家の方に相談に行きます。すると彼は、「田野瀬さん、あんた選挙に滑って不憫なこっちゃ。もう保育園でもなんでもしなはれ。こんなふけた(水はけが悪くぬかるんだ)土地でよければ年間5万円で貸したります」と言って、500坪の土地を貸してくださいました。「捨てる神あれば拾う神あり」とはまさにこのことかと思いましたね。そうしてその地につくられたのが、「社会福祉法人愛誠会なかよし保育園」(現なかよしこども園、1981年開園)です。

開園当時のなかよし保育園(写真提供:大和大学)
当時、地方の公立保育園は、3歳児からしか預からないとか、子どもを預かれるのは15時までとするような園ばかりでした。そこで当園は、「0歳児から預かります」「延長保育を18時頃までやります」といった方針を打ち出します。市内でほかにこのような園はなかったですし、そこにニーズがあったのでしょう。4月の開園当初は園児が集まらず苦労したものの、夏を迎える頃には、定員は充足していました。おかげで経済的にも安定し始め、私は次の県議会議員選挙に向けて、あちこち選挙運動に出向ける生活を送れるようになったのです。
なかよし保育園では、私が理事長、妻が園長を務めました。理事長は式典や運動会等の行事で挨拶があったりはするものの、そんなに毎日、園に顔を出す必要はありません。けれども私は、政治活動の合間を縫って、できるだけ保育園の様子を見に行くよう心掛けていました。
そうして園の様子を見ているうち、私は教育という仕事の素晴らしさに気が付きます。朝から晩まで保育室から流れてくる音楽。嬉々として園庭で遊ぶ園児たち。そんな園児たちは、先生の教えたことを全部覚え込んでいました。その姿を見て、「子どもたちは無限の可能性を秘めている。人間は教育次第でいくらでも成長できる。教育とは本当に素晴らしい、すごい仕事だ」と心から思ったのです。保育園が、政治を志す私に、教育との出会いをくれました。
この出会いがきっかけとなり、私は政治を志しながらも、教育ももっと実践したいと思うようになります。その後はご存知の通りです。西大和学園を皮切りに、次々と学校をつくっていきました。政治を行ないながら、教育も実践するという二兎を追って。
長くなりましたが、これが、私が教育の道を歩むようになった経緯です。