TOPインタビュー

国際紛争、大規模災害、少子高齢化など、厳しい状況の中で新しい道を拓くための人材育成・社会貢献に資する大学への期待は大きい。真摯に改革に取り組む大学トップの声を紹介する。

大和大学 田野瀬 良太郎総長インタビュー[前編]

いざや語らん、トップたるもの夢を仲間と【独自記事】


関西を代表する進学校の一つ、西大和学園高等学校。その創始者であり、西大和学園グループを牽引するのが田野瀬良太郎氏である。現在は大和大学の総長としてその手腕を発揮しているが、西大和学園ブランドを確立させるまでには、年表から読み取ることのできないたくさんの苦労があったという。政治家を志していた田野瀬総長がいかにして教育と出会ったのか、西大和学園はどのような軌跡をたどり、現在のブランドを築き上げたのか。そこには常に、夢と目標を持って走り続ける田野瀬総長の姿がありました。

【目次】
■ 教育との出会いは政治家浪人時代の保育園づくり
■ 西大和学園ブランド確立前夜の物語① 開学後の路線変更
■ 西大和学園ブランド確立前夜の物語② 路線闘争~進学校路線確立
■ トップは夢を語らねばならない
■ 西大和学園カリフォルニア校の軌跡
■ 大学づくりへの挑戦――白鳳女子短期大学の設立
 ▶後編 大志を、まとえ。――「東の早慶、西の大和」への挑戦


教育との出会いは政治家浪人時代の保育園づくり

少し私の昔話をいたします。私は高校生の頃から海外にたいへん興味があり、学生時代には1年間大学を休学して世界中を巡りました。時にヒッチハイクをし、時にアルバイトをして現地で資金を調達しながらの旅でした。

その1年の旅の間、知的関心の高い方を中心に、よく日本のことを尋ねられたものです。当時、日本は高度経済成長期の真っ只中で、経済成長率12%という年もあったほど、すさまじい発展を遂げていました。その成長ぶりに世界は驚嘆していたわけです。「戦争であれだけ打ちのめされ廃墟と化した日本が、なぜこれほどの復興を遂げることができたのか」「そもそも日本とはどんな国なのか」どこの国に行っても同じことを尋ねられ、私はそのたび、質問に答えねばなりませんでした。日本に居るときよりも、むしろ海外に居るときの方が、日本のことを考えていたかもしれません。

そうして何度も何度も日本について思考を巡らせ、日本の良いところ、改善すべきところを考えているうち、旅が終わりに近づく頃には、私は政治家を志していました。

ストックホルムで仕事仲間たちと
(写真提供:大和大学)


大学を卒業後、一度は一般企業に就職するも、「政治家になりたい」「どうすれば国会議員になれるのだろうか」という思いはずっと胸の中にありました。そして29歳の時、一念発起し、会社を辞めて、我が地元、奈良県五條市に帰郷します。

目指すはもちろん国政です。されども、何事も段階を踏んで進んでいくものだと私は信じていました。だから、まずは市議会議員から政治家人生をスタートさせたのです。信頼を積み重ね、ゆくゆくは国会議員を目指すために。

しかし、その考えは「永田町の常識」から大きく外れていました。国会議員、ひいては国政を預かる要職に就くためには相当な時間を要することを、私は市議会議員になって初めて知ることになります。地方の市議会議員から国会議員になっている人などいなかったのです。政治の世界に飛び込むまでそんなこと知る由もなく、順にキャリアを積んでようやく国会議員になれるのだと思っていた私にとって、それは衝撃の事実でした。

「こうしてはいられない!早く県議会議員になり、次のステップに進まねば!」焦った私は、市議会議員になった直後にもかかわらず、「県議会議員になりたい」と周囲の方に伝えます。その時の反応は、想像に容易いでしょう。市議会議員になりたての人間がそんなことを宣ったのです。皆怒ってしまって、それは大変な目に遭いました。結果、県議会議員には一度落選しています。

4年後、無事県議会議員に当選を果たすのですが、国政を志す私はそこでもすぐに「衆議院議員を目指します」と宣い、案の定周囲を怒らせ、自民党からも除名されるなど、こちらでも大変な目に遭います。そのため、自身一度目の衆議院議員選挙は無所属で出馬せざるを得ませんでした。落選しましたね。その次の衆議院議員選挙では自民党公認で出馬し、当選をいたしました。そこから6期連続で衆議院議員を務め、2012年に70歳手前で引退。このような経歴を持っています。


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