東京女子大学 森本 あんり学長インタビュー[後編]
Somethingを心に宿して――東女生として巣立つということ【独自記事】
東京女子大学の3つの柱は「女子教育」と「リベラルアーツ」と「キリスト教」である。これらのうち、「リベラルアーツ」については前編でたっぷりと語られた。後編では、“Something”にまつわるエピソードを通して、「東京女子大学のキリスト教」、そして東女生の気質に迫る。また、「女子大の意義」について、米国の例も踏まえつつ、森本学長の確固たる意思をうかがうことができた。
【目次】
■ 東京女子大学における Something ②
■「自分が最も有効に用いられるあり方で生きたい」 学長職を受諾した背景
■ リベラルアーツ教育のさらなる充実を目指して
■「その時はもう女子大学なんかやめたらいい」 森本先生が語る女子大の意義
■ エピローグ:勉強が仕事からの逃げ場!? 森本先生のリフレッシュ法
リベラルアーツ、これからの大学教育の在り方、Somethingについて語られる[前編]はこちら
■ 東京女子大学における Something ②
--スキルや能力とは異なる、倫理観や道徳観、マインドの教育といったものは、大学教育、あるいは貴学のようなキリスト教の精神に基づく大学の教育の中で養成可能なのでしょうか。
それはとても難しい問いですね。本学の3つの柱は「女子教育」と「リベラルアーツ」と「キリスト教」です。この「キリスト教」とは、先ほども申し上げた通り、直接的に教会や教義を指すものではありません。
東京女子大学は、「挑戦する知性」というキャッチフレーズを使いますが、そこには日本社会に突きつけようとしている挑戦があります。けれども、そうした挑戦をする時には、どこかに腹をくくるところがないと、なかなか時代に抗することはできません。そのための足掛かりであり、支えとなるもの。それこそが東京女子大学のキリスト教であり、Somethingであると私は理解しています。
--先ほどおっしゃっていた「引っ掛かり」というのがこれなのですね。
そのとおりです。実例というほどではありませんが、最近あったエピソードを一つご紹介します。
本学の「問いプロジェクト」をご存じですか?東京女子大学から社会への「問い」かけを通して、受験生をはじめ多くの方に、本学の「リベラルアーツ」の学びを知っていただくためのプロジェクトです。2024年6月から日本経済新聞や東京都内を中心とした屋外広告・車内広告にて、本学から社会へいくつかの問いを「出題」しました。
「問いプロジェクト-TONJO QUESTION-」始まります | トピックス | 東京女子大学 (twcu.ac.jp)
それぞれの「問い」は学内で募集したアイディアをもとに、各学科の教員と学生でセッションを行ない、選定したものです。世間一般の反応も比較的良く、「おもしろい」であったり、「東女が変わったことを始めたな」、「リベラルアーツって言葉で聞いてもよく分からないけど、こういう問いになると分かるな」といったお声をいただきました。
一方で、ネット上での反応にはネガティブな意見が見られたのも事実です。ネット社会とはそういうものなのでしょう。「何だ東女変なことやり始めて」、「女子大だから勉強なんかろくにしてないんだろう」といったコメントも散見されました。
しかし、そうした中に一つ、次のような書き込みがあったのです。
「私は東京女子大学の出身です。○○学科で、卒業研究はこういうことをしました」
本学に対するマイナスな意見、ネガティブな言葉が溢れている中で、炎上する可能性すらある場所で、あえて自分が東京女子大学の出身で、自分のした勉強はこういうものだとはっきり言うことができる、そのような卒業生がいました。
そして、その書き込みを見た別の人が、「こんなネガティブなコメントが溢れる中で名乗り出るなんて、勇気のある人だな」と書いてくれていたのですよ。
--「勇気」というのは、Somethingに係る一つのキーワードのような気がいたしました。また、そうした言葉は出身大学に誇りを持っているからこそ出てくるものだとも思います。けなされても何をされても決して動じない、プライドと自分の芯を持っている方ですね。
その卒業生がそんなに深いところまで考えて書き込みをしたのかは分かりません。けれども、その書き込みと、それに対するネットの反応を見ていると、「やはり我々はこうした学生を育て、社会に輩出してきたのだ」と、とても嬉しく思いましたね。
--例えば、裏金問題をはじめとする日本社会の問題を見ても、正しく指摘をしたり、身内でも間違っていることにはきちんと声を上げたりするような、そうした勇気が昨今失われつつあるように感じています。その点において、貴学の教育の通奏低音としてキリスト教があり、それが人格教育に効果を発揮しているからこそ、Somethingを心に宿した学生を輩出してくることができたのかもしれませんね。
はい、そのようにつながっていれば良いですね。ふだんは大人しいけれど、ごくたまに、どうしても声を上げるべき時に、怯むことなくそれができる。そうした力を静かに秘めている人になってほしいです。
本学の建物に「QUAECUNQUE SUNT VERA(すべて真実なこと)」というラテン語が刻まれているのには気がつかれましたか?「すべて真実なこと」というのは、新約聖書の「フィリピの信徒への手紙 第4章8節」(使徒パウロがフィリピのキリスト者共同体に宛てて書いたもの)中の言葉です。
実はこれはパウロ自身の言葉ではありません。パウロの生きた時代のストア哲学の徳目の一部を引用したものなのです。このことを踏まえると、「すべて真実なこと」とはつまり、キリスト教の言葉でありながら、「すべて真実なら何教でもいいですよ」ということを意味していると言えます。仏教だろうとマルキシズムだろうと何でも、「すべて真実なこと」を大事にしなさいと言っているのです。「キリスト教だから大事にしなさい」と言っているのではありません。
その意味でも、「東京女子大学のキリスト教はこれです」とはっきり言うのは難しいです。しかしながら、学生生活を通して何となくSomethingを感じ取り、卒業後もそれが種のように各人の心の中にそっとあって、大事な時にぽっと芽を出すような、そういうものであってほしいと思います。それこそがSomethingであり、「東女のキリスト教」だと思うのです。