
大学教育のデジタル活用へ向けて:日米の違いからの気づき
AI・デジタル人材育成プラットフォーム zero to one代表取締役CEO 竹川隆司氏に聞く[Vol.1]
大学教育のデジタル転換を実装する 株式会社 zero to one。代表取締役・竹川隆司氏は、大手証券会社でキャリアを積み、ハーバードMBAを経て起業した経歴の持ち主だ。金融業界の限界と日本の国力低下を目の当たりにし、「教育」こそ社会を支える根幹と考え、EdTech分野に転じた。米国では、LMS事業を展開し、東日本大震災を機に帰国後は仙台に拠点を構え、教育と地域再生に取り組んだ。 竹川氏が語るのは、日本と米国における大学教育のデジタル活用の大きな差。米国では教育工学という学問(実践)分野の伝統をもとに、専門職人材が学生中心の学びを支えるのに対し、日本では導入も運用も教員任せになり、DXが形骸化しがちだと指摘する。本編では、その背景と竹川氏の挑戦の軌跡を追う。(連載・全2回)
zero to oneを立ち上げるまで
原田:AI・デジタル人材育成プラットフォーム“zero to one” を立ち上げられるまでの経緯をお話しいただけますでしょうか。証券会社勤務時代に、MBA を取得されていますよね。
竹川:大学卒業後、大手の証券会社に入社し、はじめの3年間は支店で営業を経験しました。3年目の終わりに、社内の留学候補生に応募して選ばれたのですが、その時点で「トップ校に留学してMBAを取得する」ことが、仕事上のミッションになりました。
常にチャレンジングな環境に身を置くことを意識していたこともあり、一番大変そうだったハーバードのビジネススクールに挑戦しました。幸い合格することができ、2年でMBAを取って、リーマンショック直前の2006年に卒業しました。
帰国後は、ロンドンの拠点に配属になりました。当時はまだ「金融」の分野で日本を良くしたいという気持ちが強かったのですが、ロンドンで感じたのは、その10年前に初めてアメリカに留学した際に感じたよりも、日本の国力が世界でさらに下がっていることでした。
ロンドンでは、機関投資家向けの日本株営業を担当していました。お客様は、1兆円クラスで日本株を持っているようなファンドの方々でしたので、それこそ何百社という日本の上場企業の社長が、私のお客様のところにもIRで訪問にいらっしゃいました。それによく同伴させていただきましたが、ファンドマネージャーの目から見ても、日本がだんだん弱くなっていることがわかりました。
当時は、自分が頑張って出世して金融業界を良くすることで、日本が良くなるようなことができれば、という淡い夢を抱いていました。しかし、あと20年頑張って50歳くらいで偉くなれたとしても、その頃にはもっと日本の国力は沈んでしまっているだろう。だったら、自分でビジネスをやろう、ということで、30歳で証券会社を辞めて起業したわけです。
2008年のリーマンショックでは、金融の世界の限界も見えてきました。お金があればできることはいろいろありますが、もともとやりたかった途上国支援につながるかと言えば、ちょっと遠いな、と思い始めたのです。
それよりも、もっと根本的な、社会資本のど真ん中にある「教育」という分野により深く関わりたいと思うようになったのです。2010年代前半頃からは、テクノロジーを活用することで、最終的にアジアなどの途上国に届くような教育をやっていきたい、そういう思いから、FinTechからEdTechに移ることになりました。
はじめに手掛けたのは、LMS(Leaning Management System)です。アメリカで朝日ネットという日本の会社の小会社を作って、manabaという日本発のLMSを現地の大学向けに展開しました。ただ、manabaだけでは、文字通り片手に小さな武器を持っているだけの状態だったので、次に、アリゾナでSakaiというオープンソースのLMSを各大学に展開している会社の事業を買収して、ニューヨークとアリゾナを拠点に、全米の大学・高等教育機関向けにLMSを提供、必要に応じてカスタマイズして学習効果を高めるのに貢献する、というビジネスを始めました。
アメリカで起業する直前に、東日本大震災がありました。そのとき、日本人として自分には何ができるか、ということを考えるようになり、2014年に日本に戻って、東北で東日本大震災の復興支援の活動をしました。
その中で、カタールフレンド基金(QFF)による東北での起業家育成・支援プロジェクトに関わり、仙台市にINTILAQ東北イノベーションセンターを設立しました。その第1号の会社として、2016年1月に作ったのがzero to oneです。ですから、今でも本社は仙台にあります。


