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  • 国際紛争、大規模災害、少子高齢化など、厳しい状況の中で新しい道を拓くための人材育成・社会貢献に資する大学への期待は大きい。真摯に改革に取り組む大学トップの声を紹介する。

佐賀女子短期大学 今村正治学長[前編]

苦手な財務も総務も、やるしかない

次は、総務部に異動し総務部長に。大変でした。総務部というのは、まあ日々ネガティブなことに対応、なんですね(笑)。組合との厳しい折衝とか、人事問題とか、大学や教職員の不祥事対応とかね。そんな毎日でしたが、機構改革にもとりくみ、「総合企画部」を立ち上げ、部長に就任。総務部は1年で卒業しました。総合企画部では、2020年に向けた「R(立命館)2020計画」策定にとりくみました。この計画の中で最も事業規模が大きかったのが、大阪いばらきキャンパス(OIC)開設でした。

なぜ、OICだったのかお話しすると、京都の衣笠キャンパス(学生数18,000人)ではキャンパスの「狭隘化」が最大問題になっていました。もともと学生数に比して狭いキャンパス(12万㎡)に、授業出席率が向上し、学生であふれかえりました。駐輪場には延々と長い行列ができる始末。キャンパス問題の抜本解決なしに、教学の発展はない、という状況に立ち至っていたのです。

また、京都よりも数段広いBKCにも課題がありました。1994年に開設したころは、学生数5,500名。それが2010年頃には、17,000名になっていました。交通インフラの整備が追いつかず、車とバスが数珠つなぎになって、目前のキャンパスになかなかたどり着けないような状況でした。問題解決のためには、第3のキャンパスが必要になっていたのです。

そこに、大阪府のJR茨木駅前、サッポロビールの工場跡地が売りに出るようだという話を聞き、入手にむけてうごき始めました。一方、学内には、あくまで京都で考えるべきという考えのもと(滋賀には行ったのですが・・・)、大阪にまで手を広げたくないという雰囲気が強くありました。APU、BKCの両方とも、公私協力方式での開設でしたが、大阪の場合は自前で、サッポロビールから土地を買うという話です。立命館始まって以来の大型投資プロジェクトです。学内は判断を二分し、大揉めに揉めて大変でしたね。結局、大阪問題が争点化されてしまった総長選挙の結果、茨木市からの多額の支援も得られたことなどもあり、OICは2015年にオープン。2024年4月には、移転学部も増えて、8000名規模のキャンパスになります。

それで、もう立命館では、これ以上やることはないんじゃないか、と漠然と思っていたところ、APUに辞令がでて、また別府に戻ることになりました。APUの副学長・立命館常務理事として。2014年1月のことです。

APUは、2000年開学後こそ、順調に滑りだしましたが、やがて、大きな問題に直面します。想定より早く、奨学寄付金が枯渇することになったのでした。そこで、教学改革とともに、定員規模の1.5倍化、学費の値上げの断行による収入増で、奨学金予算を確保することにしたのです。2006年から始まった「ニューチャレンジ」計画です。定員が増えると、国内募集は苦労します。そんなAPUの苦境を、私は京都の本部から見つめているしかなかったのです。

打開の一手は、東京ターゲット戦略でした。留学生をはじめとする卒業生が、東京で企業に働き始め、日本社会では「グローバル化」が声高に言われるようになった。東京でこそAPUは認められる!営業部隊を東京に送り込みました。これが功を奏して、首都圏からの学生が増え始めました。入学者数の現状を見ると、地元九州はあまり増えていませんが、首都圏からの在学生は、全学生の約25%を占めています。こんなことは、誰も想像もできなかったことです。こうして、APUは危機を脱します。私はその現場にはいませんでした。

私が副学長として、別府に戻った2014年当時、APUは、「壁」にぶつかっていると思っていました。開学の時とは違って、全国で、「国際」、「グローバル」を標榜する大学や学部が続々と立ち上がっていました。「APUは、国際大学群の中に埋没したのでは?」という声も聞かれるようになっていました。そんじょそこらの大学に負けるもんかという自負心はありましたが、APUをあらためて新鮮に浮き立たせる「再定義」が必要でした。「多文化・多言語環境」を超える打ち出しが。

それで、始めたのが、日経BPと組んだWebを中心とする広報展開でした。そして、それが、本として結実したのが、『混ぜる教育』の出版でした。「混ぜる」をキイワードに、学生、地域、自治体、企業とAPU連携が、未来を切り拓いていく、そんな希望を実感させるものでした。

(『混ぜる教育』日経BP社刊 https://amzn.asia/d/8qoYfbh

さらに、APUが持続的に発展するには、大改革が必要だと痛感していました。しかし、APUの成功体験をとても捨てきれなく、「愛しすぎている」、「抱きしめすぎている」教職員には、改革すべき「アラ」が見えなくなっていました。そこで、私は「第2の開学」として、新学部の構想に着手しました。「アジア太平洋学部」、「国際経営学部」に続き、3つ目の学部設置です。相当の時間がかかりました。「サステイナビリィ観光学部」が開設されたのは、私が退職して4年後、2023年4月のことです。


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