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  • 国際紛争、大規模災害、少子高齢化など、厳しい状況の中で新しい道を拓くための人材育成・社会貢献に資する大学への期待は大きい。真摯に改革に取り組む大学トップの声を紹介する。

佐賀女子短期大学 今村正治学長[前編]

大分県の誘致計画に反応したのは立命館のみ?

今村学長:94年からは、APUの設立の準備が始まりました。きっかけは、大分県(庁)からのアンケートだったんです。アンケートが来て、「大分県への大学誘致に興味があるか」という質問。YESと答えたのは、なんと立命館だけだったと、先輩から聞きました(笑)!

いま思えば、ものすごいことを考えていたと思いますね。APUは、国際化の極致のような大学。定員の半分が留学生、しかもアジアだけでなく、世界中から集めてくるというのだから。教員も50%外国人、学生も50%留学生、国は50か国以上から。「3つの50」を掲げた大学は、日本にも世界にもありませんでした。立命館には、国際関係学部の新設、BKC拡充移転など、国際化と大型公私協力の経験がありました。この合わせ技というべき産物がAPUだったという気がします。

APUは、1995年に構想が発表されましたが、私は、うまく行くという感覚はなかったですね。

当時、私は学生課長というポジションでした。この仕事、つまり学生課の仕事は自分の「天職」だと思っていましたね。学生が好き、実務は苦手、自治活動やサークル活動支援、アメフトなどスポーツ強化、事件事故対応、ときには、悪徳新興宗教からの脱出工作など、てんやわんやの毎日でしたが、充実していました。

また、学生課の立場から、BKC開設事業にもかかわりました。京都のキャンパスにはない、新しい学生生活支援を具体化していたのです。

だから、APUは自分事ではなかった。

ところが、その後、新大学(APU)開設事務局に配属を命じられて、開設準備課長を拝命します。初めて、大分県別府市のキャンパス予定地・十文字原高原に立った時には、ホントに呆然としました。本当に何もない!ここに大学をつくるのか…。信じられませんでした。

それでも、私は、新しいこと、最先端のことは大好きなので、こうなったら本気で頑張ろうと思いました。1997年から京都のキャンパスで、そして、開学の一年前、1999年からは別府に移り住んで、開学の準備にあたりました。開設準備の体制は、法人部門が寄付集め・ネットワークを、そして、開設事務局には、教育内容のデザイン、学生募集の担当があり、私が主に担当したのは、「その他」、開設準備もろもろです。学生生活支援政策、たとえば学生寮・APハウスのデザイン・運営方針や、キャンパスの建設にかかわる実務、県庁・市役所の折衝窓口、地元マスコミへの対応などでした。

APU開学事業全体の成否を握っていたのは、学生募集、とりわけ、留学生の募集でした。私は、韓国の担当・責任者にも任ぜられ、1998年に開設した韓国事務所を拠点に、韓国全道、100校以上の高校を訪問し、説明会をおこなっていました。別府で開設準備の仕事をしながら、韓国での募集活動でしたから、大変でした。とくに開学の1年前、1999年は人生最大の繁忙の年だったと思います。毎週のように、韓国と別府を往復していましたね。それはどこの国・地域の担当者も同じだったわけで、大学をつくるということは、教職員が、情熱的に、全経験、全能力を総動員してこそできるものだと思いました。


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