
武蔵野美術大学 長澤忠徳 理事長インタビュー
造形構想学部が示す「学問の再編」
--2019年に造形構想学部が新設され、美術教育界でも大きな話題となりました。ご自身は、それ以前の2015年に学長に就任されていますが、これにはどのような経緯や構想があったのでしょうか。
長澤理事長:実は、2014年に私の父が他界したのですが、父は「忠徳、チャレンジをやめたら肉体が滅んでいくんだぞ」という言葉を残したのです。その年の夏休み明けに学長選挙があった。これを知った時、「これだ、これが私のチャレンジだ」と思い立ちました。
--お父様のお言葉を胸に、学長選に名乗りを上げられたのですね。
長澤理事長:そうしたかったところなのですが、当時、本学には「立候補制度」がなかった。だから私が「自分でやる」と手を挙げたら、もう学内は大騒ぎですよ。「あいつは何を考えてるんだ」と。推薦人を自分で集めなければならなかったのですが、これがまた大変で。「あいつを応援して、もし選挙で落ちたらどうする」という力学が働き、誰も推薦人になってくれない。
こうした状況が続く中、ある先生が叫んでくれたんです。「長澤が自分でやるって言っているのに、味方もできないような大学なのか、ムサビは。クリエイティブな大学じゃないのか」と。
その言葉で空気が一変しました。推薦人が集まり、決選投票で過半数を獲得し、2015年に学長に就任しました。
--ドラマのようなエピソードですね。就任後、すぐに新学部の構想に着手されたのでしょうか。
長澤理事長:そうですね。当選直後のある日、当時の天坊昭彦理事長(出光興産株式会社元社長)に呼ばれました。そして「長澤君、都会に出て行かないか。」と言われたんです。私には、「東京宣言」から続く構想がずっと頭にありましたから、その言葉が、新学部構想を具体化させる、直接的なゴーサインになりました。
--新学部を設立するということは、一筋縄ではいかなかったと思いますが、具体的にどのような困難があったのでしょうか。
長澤理事長: 最大の壁は、当時も地方大学・産業創生法の規制で、23区内における大学の定員増が認められていなかったことです。新キャンパスは市ヶ谷に開設する計画でしたから、これは致命的でした。
--その規制に関する問題を、どのように解決されましたか?
長澤理事長:既存の学部の定員を少しずつ削って、その分を新学部に充てました。そうすれば、大学全体の「総定員」は変わらなくなります。つまり、定員増型の新設ではなく、既存組織の再編という形を取ったのです。
--合理的な解決策ですが、学内の意見をまとめるのは大変だったのではないですか?
長澤理事長:それはもう、すごい反発でした。大学では、学生定員に応じて専任教員の数が決まります。定員を減らすということは、将来的に教員のポストが減ることを意味しますから、学内からの抵抗はすさまじかった。申請の期限である9月末に間に合わせるために、同月の教授会で承認を得る、というスケジュールだったので、本当にギリギリの戦いでした。
--まさに、武蔵野美術大学の挑戦の歴史を象徴するようなエピソードですね。
長澤理事長:そうなんです。本学は、日本初の造形学部、カタカナ表記の「デザイン学科」、そして造形実技系の通信教育など、常に他大学に先駆けて新しいことに挑戦してきた歴史があります。今回の挑戦も、その延長線上にあるという自負がありました。だから、新しい学科名もグローバルな視点で考えています。クリエイティブイノベーション学科や大学院の造形構想専攻 クリエイティブリーダーシップコースといった名称は、まず英語でコンセプトを固め、それをあえて翻訳せずにそのままカタカナ表記にしたんです。
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