
「2040年の大学・高校、高大接続を展望する」溝上・増谷対談レポート
2. 逆転する「高・大」の関係:先進的な高校、停滞する大学
30年に及ぶ大学改革の「停滞」は、高大接続に「断絶」を生み出している可能性もある。従来、高大接続が議論されるときは、「大学に高校が接続する」=「大学が主、高校が従である」、と(暗黙裡に)見なされてきた。しかし、この関係は、近年の高校教育の目覚ましい進化によって大きく揺らぎ始めた。ただし、それは健全なパートナーシップ(対等な関係)への移行ではなく、互いの現実を理解できない、単なる「システム的なコミュニケーション不全」に他ならない。この歪(いびつ)な状況を打開するには、むしろ大学側からの変革が求められる。大学の存在価値・理念そのものを根底から問い直す必要があるのだ。
溝上氏は、「高校の方が大学よりはるかに高度な取り組みをしている」との見方を示している。同氏によれば、大学と高校の間には大きな認識のギャップが存在する。高校で行われている「探究学習」は、現在、多くの学校で非常に洗練されたものへと高度化しているが、大学側は、それを接続する準備も理解もできていない。
かつて高校側に求められていた「大学にうまく接続するような天井を作れ(学ぶべきことの上限を設けよ)」という助言は、もはや意味をなさない。大学に進学した高校の卒業生からは「大学ではアクティブラーニングをやっていない」「高校の(授業の)方が面白かった」という大学への「失望の声」が頻繁に聞かれるようになっている。問題なのは、大学人が高校でどのような教育が行われているかを「あまりにも知らなすぎる」という、無関心ともいえる実態である。これが、大学側が「変わる」べき理由だ。
この厳しい指摘に対し、増谷氏は高校側の問題と、教育現場における複雑な実情を補足的に説明する。実際には、高校における探究学習の質は、学校間で大きくばらつきがある。そして、その背景には教員の待遇や働き方の問題も根深いものとして存在している。多様化する生徒たちのニーズに対し、多くの高校教員が身を粉にして教育にあたっているが、生徒たちの多くはあいかわらず「大学入試」の突破を目標として授業に取り組んでいるという現実もある。
大学改革・教育改革のメニューは、すでに出揃っている。しかし、大学と高校は、いまだ互いの状況を理解できないでいる。高大の接続問題は、双方のコミュニケーション不足にあるといってもよいだろう。
このような、高大接続における構造的な課題は、高校の進路指導にも影響を及ぼしている。高校側は、偏差値以外の新たな大学選びの軸を模索する必要に迫られているが、大学側は、自らの教育的価値を明確に提示できていないため、旧来型の学力観と結びついた「ブランド志向」「偏差値信仰」が続いている。
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