
大和大学 田野瀬 良太郎総長インタビュー[前編]
■ 西大和学園ブランド確立前夜の物語② 路線闘争~進学校路線確立
「開校後」に進学校路線へ舵を切った西大和学園高等学校ですが、教師陣、とりわけ体育科の先生方を中心とした反発は凄まじいものでした。特にサッカー部は、開校から半年間必死に練習を重ね、新人戦ベスト4という成績を残していましたし、優秀な選手も引っ張ってきていたので、その反発は当然であったと言えるでしょう。
校長も、私の前では「理事長、そりゃあ進学校だ」と言うのですけれども、職員室に戻ると、「理事長はあんなこと言っているけど、進学校になどなれるわけがない」と言っていました。面従腹背とはこのことです。しかし、私も意志を曲げるつもりはありません。「進学校にしなければならないんだ」と訴え続けました。かくして、この「路線闘争」は、その後10年ほど続くことになります。
「路線闘争」は常に平行線で、「進学校にしよう」「いや、それはできない」という意見のぶつかり合いが続きました。体育教師たちが抵抗し、体育教官室に籠城してしまったこともあったほどです。ほとんどの教員が進学校路線に反対していました。
しかしながら、60~70人いる教員のうち、たった2人ですが、当初から私の意見に同調してくれた者もいたのです。一人は以前他の進学校に勤め、進路指導も担当していた36歳の福井先生、もう一人は公立高校で数年勤めたのち西大和学園にやってきた25歳の平林先生でした。この2人は本当に頑張ってくれて、進学校路線に反対する教員たちを、私とともに説得してくれました。特に平林先生は、若手教員たちを説得する役割を担っていたこともあり、反対派の矢面に立ち、彼らと根気強く話をしてくれていました。
「路線闘争」開始からおよそ10年が経った頃、私は平林先生に校長になってほしいと伝えます。本校ではそれまで3代、公立高校で校長を務めた実績のある先生を校長に迎えていました。いずれの校長先生も、激動の最中、本校の下地作りに尽力してくださり、本当に感謝しています。しかし、進学校路線への変更を完遂するには、当初から私の考えに同調し、進学校路線反対派と対峙しながらも、常に改革の先頭に立って皆を懸命に引っ張ってきてくれた人を校長に据えるべきと考えたのです。
しかし、平林先生は当時34歳。当然、最初はかなり躊躇されました。けれども、私は彼に言います。「君は確かに34歳だ。しかし、坂本龍馬を見てみろ。28、29歳で日本を動かしたんだ。こんなちっぽけな高校、34歳なら十分に動かせるだろう」と。そうした説得が功を奏したのかもしれません。最終的に「頑張ります」と言ってくれました。本校初の生え抜き校長の誕生です。
この生え抜き校長の誕生により、西大和学園はどんどん一つにまとまっていきました。そしてついに、長年の路線闘争に終止符が打たれ、進学校路線が完成したのです。この年を境に進学実績は大きく跳ね上がり、その後もどんどんと上昇していきました。
――体育科の先生方に納得していただくまでには、ご苦労もあったのではないでしょうか。
開校2年目の冬、私は体育教師全員を飲み屋に集め、改めて彼らと直接話をしました。中途半端な文武両道では、この先、生き残っていけないこと。進学校といっても、勉強ばかりする子を育てたいわけではないこと。日本をより良い国にしていってくれる、大志を持った子どもたちを育てていきたいこと。互いに腹を割って話し、ひたすら飲み明かしたこの会は、明朝4時まで続きました。
「部活動は週3回、2年生の3月で引退」これが進学校を目指すために我々が定めた、部活動のルールでした。開校直後から生徒たちとともに、必死に汗を流してくれた先生方にとって、このルールに従うのは断腸の思いだったでしょう。よく受け止めてくださったと思います。
――体育科の先生方は辞められはしなかったのでしょうか。
辞めなかったです。ずっとおりましたね。
――組織経営としてはすごいですね。トップダウンというよりも、10年間の侃侃諤諤の議論を経ての路線改革と言いますか。
皆で寄せ書きまでしたんですよ。「日本一の進学校にする」という。
――とてもドラマチックです。「雨降って地固まる」とはまさにこのことですね。
2026年で西大和学園高等学校は開校40周年を迎えます。ただし、最初の10年間は路線闘争期でしたので、その後の30年で、こうした実績を作り上げてきました。

西大和学園中学校・高等学校(写真提供:大和大学)
*西大和学園の軌跡は、こちらの書籍でもお読みいただけます。
田野瀬良太郎『なぜ田舎の無名高校が東大、京大合格トップ進学校になれたのか 西大和学園の躍進』(主婦の友社)