沖縄大学 山代 寛学長インタビュー[前編]
沖縄のために高等教育を捧ぐ ――創設者の想いが紡いでいく「沖縄大学物語」【独自記事】
「沖縄の人々のために教育を」 沖縄大学はこの創設者の想いのもと開学され、一時は存続の危機に立たされながらも、県民の大きな支持を受け、今日までその歩みを続けてきた。では、なぜ創設者はこの想いを抱き、なぜ大学はその想いを理念として守り続けるのか。そして、なぜ沖縄大学は地域の人々に愛され、必要とされ続けているのか。その解となり得る「沖縄大学物語」を、山代寛学長に熱く語っていただきました。
■「沖縄の人々のために教育を」 つながる創設者の想い
--貴学の歴史の話からお聞きします。貴学は戦後の1958年に、創設者の「沖縄のために」という強い想いのもと、歩みをスタートさせました。それから長い月日が流れましたが、貴学の中心的な理念は、現在も変わらず「沖縄のために」というところで一貫しているのでしょうか。
おっしゃるとおり、まさに「沖縄のために」というのが、本学の創設者・嘉数昇(かかず のぼる)が掲げた理念の一つです。嘉数が生まれ育った20世紀前半の沖縄県では、大学はおろか、高校に進学することすら非常に困難でした。社会全体としても、「百姓には勉学は不要だ」と言われたような時代です。そのため、嘉数自身も尋常高等小学校しか出ていません。しかし、そのような環境下でも嘉数はたいへん苦学し、実業家として大成します。
この自身の苦労した経験から、嘉数は「教育の機会均等」を本学の理念の大きな柱の1つに定めました。「学びたいという気持ちがありながら、さまざまな事情で機会に恵まれず悪戦苦闘している若者を心から激励したい」、「自分のなめた辛酸を、二度と、沖縄の若い世代に味わわせたくない」という彼の思いが、そこには強く表われています。
「沖縄の人々のために教育を」
これが沖縄大学創設の背景にある、非常に大きなメッセージです。
そしてもう一つ、創設当時の本学の理念としてユニークなのは、「日本人教育」を3つの柱の1つとしていたことです。
大学に先んじて、1956年に、嘉数はまず沖縄高等学校を創ります。その後、1958年に沖縄短期大学ができ、1961年に沖縄大学が開学します。その当時、例えばアイゼンハワー(元・米大統領)は、「沖縄はアメリカのままでいい。もう日本に返すつもりはない」ということを、再三にわたって宣言していました。それに対し嘉数は、「それはおかしい。我々は自分たちのアイデンティティをしっかりと持つべきだ」と考え、本学の理念の3つの柱の1つを「日本人教育」としたのです。この言葉を現在の価値観でとらえてしまうと、ニュアンスが大きく違ってくるため驚かれるかもしれません。しかしながら、この理念には大学が設立された当時の時代背景が色濃く反映されているのです。
したがって、「地域への貢献」については、本学設立当初から現在まで、一貫して継続されていると言えます。けれども、沖縄の本土復帰を挟んで、「日本人って何なの」とか、「日本って何なの」という考え方には、変化があるのだろうと思いますね。
また、「教育の機会均等」については、まさに今も、その役割は沖縄大学にあると考えています。2024年で創設66年目となりますが(沖縄短期大学ができた1958年を創設年としている)、「沖縄のために、地域のために」という理念に基づく教育は、創設以来、揺るぎなく続いております。
嘉数 昇
沖縄県那覇市出身の実業家。
40歳で県会議員となり、戦後は琉球生命保険株式会社の設立に携わる。
1956年に財団法人嘉数学園を設立。
--同窓会など、卒業生の方々との結びつきは強くあるでしょうか。
本学には2万人を超える卒業生がおります。特に現同窓会長(2024年時点)の棚原勝也(たなはら かつや)氏は、沖縄大学のことをとても贔屓にしてくれていて、若い力を動員し、同窓会をよりパワーアップさせようと、一生懸命活動してくださっています。
また、知念覚那覇市長など、ステークホルダーにも本学の卒業生が多くおります。知念氏は、市長になる以前に、本校の理事もなさっていらっしゃいました。こうした地域とのつながりがあるのも、今の沖縄大学の強みです。本学はやはり、地域に根差した大学ですので、今後この強みをもっと伸ばしていきたいと思っています。